ターニングポイント
顔を上げると山が綺麗だったので、思わず自転車を止めて写真を撮った。
ずり落ちた楽器ケースの肩紐をかけ直す。スマートフォンの画面の中で、フタコブラクダの背のような稜線が青い空にくっきりと映える。大学に入ってから三年間、当たり前だったこの景色も、しばらく見られなくなると思うと妙に愛着がわいた。山の方から吹いてくる風が濃い緑の匂いを運んでくる。その匂いとともに、早朝のひんやりとした空気を吸い込んでみる。そういえば、この街にはいつも風が吹いている。その理由さえ、結局今日まで知らずじまいだった。
腕時計をちらりと見やって、おれは再びペダルを漕ぎ出した。
朝の大学は静まり返っていた。
敷地内をバスが走るほど広大なキャンパスは、人がいないと途端に物憂げになる。木々の合間にコンクリートの建物が点在する様子は、忘れ去られた文明遺跡のようだ。その様子をぼんやりと窓から見下ろしていたら、目の前にある池の水面にひらりとひとつ、桜の花びらが着地した。
くすんだ銀色のサッシに手をかけて、窓を数センチ開ける。それだけでサークル会館のホコリっぽい空気はどことなく和らいだ。会館などというご立派な名前がついてはいるが、実際にはコンクリート三階建てのボロ部室棟といったところだ。建物の中には文化系サークルの部室が点在していて、空きスペースは文化系サークル以外の学生たちも自由に使っていいことになっている。おれも入学してからこの方、随分とお世話になっていた。
楽器ケースの中でひんやりと横たわる金属に、そっと指を滑らせる。使い込まれたトランペット。中学生で吹奏楽部に入り、この楽器を手にしてから、気がつけば十年近くの付き合いだ。入学したての中学一年生のとき、やりたい楽器を聞かれてトランペットを選んだのは、このフォルムが気に入ったからだった。大きすぎず、小さすぎず、繊細な管の絡まりとそこから広がっていくベル(音が出る口のことをこう呼ぶ)の曲線美がかっこよかった。今にして思えば、何とも不純で適当な理由だ。
そんで、ごめん。今日のおれも、ちょっと不純だ。
ひとり苦笑いしながら、ケースから相棒を取り出す。唇をそっとつけて、するどく息を吹き込む。天井に突き刺さるような真っ直ぐな音が出る。
この音、好きなんだ。彗星みたいな音。
これからやってくる人は、いつだったかそんなことを言っていた。何度か慣らしてから、ひとつ深呼吸。外した腕時計が、机の上で予定の時間一分前を指している。時間には几帳面だから、たぶんもう会館の前に着いているだろう。もう一度トランペットを構える。ある映画のテーマソング。少し開けた窓。たぶん外にも聞こえている。おれは、そういうところが少しずるい。
緻密に計算して、予想して、布石を打って、先回りする。それがおれの癖というかやり方で、高校生までは自分がそれなりに賢い人生を歩んでいると思っていた。けれどこの大学に入ってから、どうやらそれは違うのだと気がついてしまった。小賢しい計算なんて無意味なほどのエネルギーを持った人間が、ここには溢れている。特に、おれが所属する芸術学部には。
「なんだそれ、意味分かんねえ」
友人たちの中でもいっとう変人なある男は、そんなおれの話を聞いて不思議そうに目を瞬かせていた。
「お前の生き方はお前の思考だろ。そもそも計算じゃない」
当然のように言うあいつは、そもそも脳みその構造から違うんだろう。見えている景色すら違う。こんなずるい手を使わなくても、欲しいものを手に入れられる。のびやかで自由で刹那的で蠱惑的で……ああいうのは若死にするタイプなんだ。そうに決まってる。
サビの部分に向けて、トランペットに吹き込む息を強める。
そのとき、
「あーやっぱり!」
……ほら、計算どおり。
ゆっくりと振り向けば、大きな瞳を嬉しそうに見開いて、彼女は立っていた。駆け寄ってくる肩の上で黒髪が滑る。いまどき染めずにパーマもかけていない。スプリングコートの下からすらりと伸びたスキニージーンズは、春めいたブルー。そして腕には、おれのものよりも大きく重たそうな楽器ケース。
「ね、その曲、私も好き!」
知ってるよ。だからこっそり練習したんだ。
「あれ、そうなんだ」
言わないけど。
「あの映画いいよね。あ、君山くんってちょっと主演の俳優に似てる」
「そうか?」
「似てるよ。何考えてるのかわからない感じが」
「おい、それ褒めてないだろ」
「いやいや、ミステリアスな魅力ってことですよ」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、千歌は近くに置かれた古いソファに楽器ケースをおろした。サークル会館二階奥。錆びた机と古いソファが放置されているだけの、がらんとしたこのスペースが、おれたちのいつもの場所だ。かちゃりとバックルを開けて、彼女が取り出したのは高級そうな三味線。家の蔵で見つけたからついでに三味線サークルに入ったという彼女の実家は、どうやら老舗の温泉旅館らしい。
同じ芸術学部の学生で、朝練仲間。
それがおれと千歌だった。
毎週土曜日の朝、この場所で、おれはトランペットを、彼女は三味線を練習する。
「いい天気だねぇ」
ソファに腰を下ろし、三味線の弦を調整しながら千歌がつぶやいた。窓から差し込む陽に、気持ちよさそうに目を細める。
ゆるやかな弧を描く唇。
震える長いまつげ。
その横顔を見ながら、おれは一瞬、息をするのを忘れてしまう。もしかしたら、瞬きも。
「……筑波山、綺麗だったよ。見た?」
小さな間ののちに慌ててそう切り返す。今朝思わず写真を撮った、あの山だ。
「え、ほんと? 気づかなかった」
スマートフォンのアルバムを操作して、ほら、と千歌に画面を向ける。へえ、と身を乗り出して覗き込んでくるその顔が、予想したよりも少し近い。その距離感に勝手に動揺するのは、たぶんおれだけなんだろう。
ほんと綺麗だね、と笑いながら彼女の顔が離れていく。おれはスマートフォンをいじるふりをして一瞬うつむき、すぐに顔を上げて、だろ、と笑い返す。
感情を隠すのは得意だ。
「そっちのサークルもそろそろ新歓の準備だろ」
自分も窓の外に目をやりながら、そう切り出す。三月の半ばともなれば、構内にもちらほらと桜が咲き始めていた。
「うん、怒涛の新歓シーズンに突入だよ。一年前は大変だったなあ」
「同感」
あと一週間もすれば卒業式、その後にはすぐ入学式が待っている。フレッシュな一年生が構内に目立つようになるだろう。一方おれたちは、順調にいけば四月をもって三年生になる。サークルの最前線からはそろそろ引き下がる頃合いだ。
何となく会話が途切れて、おれと千歌はそれぞれの楽器を持ち直した。お互いの音の邪魔にならないよう、ソファの対角線上にある窓辺まで離れる。弦と金管の音が不規則に響き始める。
ひととおり練習が終わるまでは、話しかけない。
それは二人の中で何となくできたルールだった。
おれが千歌と初めて会ったのは、入学してすぐのオリエンテーションだった。同じ学部なんだから当然だ。学部長のあいさつがあり、新歓委員長の先輩から威勢のいい声掛けがあり、そこから新入生が親睦を深めるための懇親会が始まる。百人以上いる同期の中で顔を覚えていたんだから、たぶんそのときに少しくらい話はしたんだろう。けれど、同じ学部だからといって全員と友達になれるわけではない。異性で専攻も違うとなればなおさらで、おれの頭の中では千歌の存在などほとんどないに等しかった。
だから大学で迎えた二年目の春、ここで会ったとき、申し訳ないことに名前が出てこなかった。
「ここ、いいですか」
あの朝、トランペットの練習をしていたら、そう話しかけられたのだ。
その頃、ちょうど春のコンサートに向けて個人練習の時間が欲しくて、朝のサークル会館に通うようになっていた。おずおずとこちらをうかがう顔には、何となく見覚えがあった。右手に下げた楽器ケースを見て、意味を悟る。
「あ、どうぞ」
机に置いた楽譜に書き込みをしていた手を休めて、心持ち頭を下げる。向こうも小さく礼をして、ソファに腰かけた。何となく、お互いに顔見知りだということに気づいていた。だからちらちらと視線が行き来して、何度目かに視線が合ったとき、彼女の口が開いた。
「あの、もしかして、同じ学部?」
「だよね。見たことあると思った」
「君山くん、だよね。建築専攻の」
「あ、うん」
びっくりした。まさか相手が自分の名前を覚えているとは思わなかったのだ。
「やっぱり! 久しぶり」
「あーごめん、えっと」
「あ、横井です。書道専攻の、横井千歌」
千に歌う、です。と言いながら指が空中に文字を記す。その動作があまりに綺麗なので、思わず少し見とれた。
「横井さん、ね。ごめん、忘れてた」
「いいよ。話したの、一年生の頃だもんね」
「……朝練?」
黒い楽器ケースに視線をやりながらそう聞くと、首がこくりと縦に振れた。
「新歓演奏会の追い込みで」
「あ、おれもちょうど春のコンサートの練習してた」
「トランペットだよね、それ」
「うん、吹奏楽のサークル入ってて。そっちは」
「私は、これ」
開いた楽器ケースには三味線が収まっていた。
「しぶいね」
「それ、褒めてる?」
「もちろん」
うちの大学の三味線サークルは東京の大きな団体とつながりがあるらしく、かなり大規模で人気がある。
「三味線の新歓演奏会、毎年すごいらしいね」
「うん……まあね」
「もしかして、新歓担当?」
「よくわかったね」
「おれもだからね」
どこのサークルでも、新歓の運営は二年生が行うことが多い。そしてたいてい、断るのが下手なやつが担当責任者を押し付けられるのだ。どうやらおれたちは、その部類だったようだ。イベント企画やら、大学への申請やら、担当者には仕事がどっさり降ってくる。
「新入生には悪いけど、正直面倒くさいよね」
「うん、かなり」
くすくすと、二人で笑う。おれと千歌の眠たげな顔には、クマが目立った。何となくともに戦う同志のような感覚が、おれたちの間に流れていた。
「じゃあ、朝練仲間ってことで。お互い頑張ろう」
よろしくお願いします、先輩、と千歌が頭を下げるので、「よろしく、新入り」とおれもおどけて頭を下げる。
そんなやりとりがおかしくて、おれたちはまたひとしきり笑った。
そんな、たいしたことはない出会い方だった。
おれと千歌はそうして何となく、週に一度、ここで顔を合わせるようになった。
挨拶ついでの小さな雑談がだんだん長くなっていって、この一年間の間に、おれたちは随分といろんな話をした。自分のこと、家族のこと、芸術学部の同期たちのこと、授業のこと、最近気に入った芸術家のこと。不思議と会話は尽きなかった。三味線を弾いているときには凛としている彼女は、話してみるとどこか抜けていて、無自覚におれを笑わせてくる。
「金管楽器って、巨大なシャボン玉つくれそう」
と真顔で言われたときには、半日くらい思い出し笑いが止まらなかった。
名字で呼ぶと嫌がるくせに、自分はいつも「君山くん」だった。
時折ふたりで、朝練終わりにカフェや食堂で遅い朝ごはんを食べた。千歌は猫舌なのに、毎回なぜか熱いコーヒーを頼むのだ。
新歓時期で終わる予定だった朝練は、今では週二回に増えた。
そんな小さな時間が、おれと千歌の間に積み重なった。
積もり積もって、深くなって。
おれは、失うのが少し怖くなってしまった。
「君山くん? 大丈夫?」
ソファのほうからそんな声がかかって、我に返る。いつのまにか演奏の手を止めてしまっていたらしい。
「……ああ、うん」
「そろそろ終わりにする?」
千歌が壁の時計に目をやる。おれも机の上に置かれた腕時計を確認する。いつもの終わりの時間が近づいていた。
ああ、終わってしまう。
そっと唇を噛みしめる。おれはこれから、ちょっとした賭けをしなければならない。勝率は正直わからない。
「あ、そういえば」
千歌が思い出したように顔を上げた。
「今度の演奏会、ちょっとだけ独奏やるの。もしよかったら、見に来ない?」
屈託のない笑顔。
うん、と答えたかった。黒髪を結い上げて三味線を独奏する彼女は、たぶんすごく綺麗なんだろう。でも、その姿は拝めそうにない。
「言い忘れてたんだけどさ」
返事をしないまま、できるだけ自然に話を切り出す。
「四月から留学するんだ。パリに一年」
おれに向けられていた笑顔が、不自然に固まる。
「……え?」
「だから、朝練も今日が最後になるかな」
「いきなり、だね」
「うん」
入学した頃から参加したいと思っていた留学プログラムに、ようやく通った。向こうで通うことになるのは、建築の世界ではわりと有名な大学だ。ほぼアパートの整理もついたし、一週間後には日本を発つ。すごく嬉しいし、どんなことが学べるか、わくわくしている。ただひとつ、後悔があるとするのなら。
「……おめでとう」
「ありがとう」
「すごいね。頑張ってね! そっかあ、じゃあ私もそろそろ朝練卒業しようかな」
ぎこちなかった千歌の笑顔が、もう一度作り直される。その笑顔を見つめたまま、次の言葉を放つ。
「だから」
後悔があるとするのなら、それは、これまでずっと君と「朝練仲間」だったことだ。
「だから、おれと付き合ってくれない? 思い出に」
こういうところが、おれはやっぱりずるい。
「留学するまでの一週間。それだけでいいから」
予想して、先回りして。おれはおれに保険をかける。
君のそばにいたくて。
君の情けを、利用したくて。
千歌の顔が今度こそ凍りついた。そのままきっかり五秒間。
「……何、それ。期間限定彼女?」
「うん」
「私が、うんいいよ、って言うと思った?」
「……ごめん」
その先を、うまく声にできなかった。
ごめん。泣かせるつもりはなかったんだ。
思わず伸ばそうとした手を、握り締める。がらんとした空きスペースの対角線上にいる彼女は、おれの届かない場所から、潤んだ目でこちらをにらみつけていた。頬を小さなしずくが伝っていた。
こんなときでさえ見とれてしまいそうになるおれは、きっとどこかおかしい。
がちゃり、と千歌が乱暴に楽器ケースを開いた。三味線をしまい込み、脱いでいたスプリングコートをつかんで立ち上がる。そして何も言わず、階段の方へと歩き出した。
ああ、負けたな、賭け。
その背中を見つめながら、そう思う。さしずめ借金は、小賢しい自分。彼女を傷つけて怒らせただけの、最低なやつ。
そのとき、階段の直前で、背中が止まった。
「ねえ」
振り向かないまま、千歌の声が響く。
「私、期間限定なんて絶対嫌だから」
黒髪が翻る。
振り返った目はあいかわらずこちらを睨んでいた。だから、と薄く色づいた唇が動く。
「向こうでフランス美人と付き合ったりしたら、許さないからね」
数秒後、彼女の足音が階段を駆け下りていった。
おれは千歌のいなくなった空間を見つめたまま、固まった。
一呼吸分考えて、ああ、と悟る。
手を伸ばし、楽器ケースのバックルを閉める。楽譜を閉まって鞄の中へ。入口の扉が開く音は、まだ聞こえていない。荷物をつかむと、こみあげてく喜びを必死に押さえて、おれは壮大な言い逃げをした彼女を追いかけた。
閉め忘れた窓の隙間から、いつの間にか桜の花びらが舞い込んでいた。
百人一首アンソロジー さくやこのはな 参加作品
〇一三(陽成院) 筑波嶺の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
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